同人イベントに関わる全ての方へ

声優

日高のり子(ひだかのりこ)

概要

▲ページトップ

経歴

【来歴/子役・アイドル時代】
子供の頃から子役として活動。高校時代にはいとう のりこ名義でアニメ『ふたごのモンチッチ』の主題歌を歌い、キャンペーンのお姉さんとして着ぐるみとともに全国を回ったこともある。
「初恋サンシャイン」でアイドルデビュー。
1日だけ「あいようこ」(漢字不明)の芸名だったが、本名の「のりこ」は残したいということで、現在の芸名に変更となった。
香川の「仁尾太陽博」のキャンペーンガールを務める。
NHK『レッツゴーヤング』において「サンデーズ」のメンバーになり、ある程度名は売れたものの、その後アイドルとしては失速して行き、苦労続きの日々を送る事になる。
1984年時点では22歳になっていたが、芸能界で未だ一皮剥けない状況に、業を煮やした両親からは半ば引退勧告も突き付けられていたという。

【来歴/声優転向】
そんな中、当時担当していたラジオ番組で、リスナーから「声に特徴があるので声優をやってみたら」と投稿があったことに触発され、オーディションに挑戦。
結果として、『超時空騎団サザンクロス』(ムジカ・ノヴァ役)で声優デビューを果たした。
1985年からは『タッチ』でヒロイン・浅倉南役を担当し、声優としての知名度をあげる。
その後『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』、『らんま1/2』、『となりのトトロ』等知名度の高い作品に多く出演。
また、1989年の『ピーターパンの冒険』では、レギュラーキャラクターでは初となる少年役を担当した。
この他にも年相応の役を増やすなど、役の幅を拡大させていった。

【来歴/ 所属事務所・マネージャー】
子役時代には東京宝映に所属していたが、アイドルデビュー後は当初CBSソニー預かり(マネージャー:森田)の後、河野プロモーションへ。
マネージャーは岡本が長く務めた後、大楽豊、寺岡理恵と変遷した。
1996年春頃に事務所が廃業、暫くフリーでの活動を行うが、81プロデュースのマネージャーを務める吉田理保子から誘いを受け、寺岡と共に移籍。長年在籍したが、2006年3月限りで81プロデュースを退社、その後夫の個人事務所(BIG MOUNT)の所属扱いで活動していたが、平成21年1月19日に新事務所「コンビネーション」をタッチで共演以来の旧友の三ツ矢雄二と共に設立した。
所属レコード会社はアイドル時代の当初ソニーレコード・CBSソニーから、ポニーキャニオン、そしてメルダックと変遷したが、近年は歌手活動をしていない。

【来歴/人物像】
明るい性格で知られ、島本和彦からは「便所の100W(無駄に明るい)」と言われたこともある。
明けっぴろげな性格で、飲み会で酔っぱらい、ジーパンで股を開いて眠り惚けたエピソードを「文化人」こと三ツ矢雄二に散々言いふらされたことがある。
アイドル出身声優の中でも際立った異色の経歴と、苦労続きの日々を送っていたこと、ラジオ番組で見せたキャラクター性から「一筋縄では行かない性格」「声優界でも指折りの隠れた豪傑」と評するファンもいる。
玉乗り、小森まなみの声真似が得意。
芸名は本来異体字を用いて日高のり子としているが、アイドル時代のごく初期を除いて「日高」と表記されることが多かった。
だが、10年ほど前に字画の関係から声優の金丸淳一に勧められて、本来の異体字で表記するようになった。
1991年、山寺宏一・関俊彦とともに芝居『@@ザ・スタースパングルド・ガール::』を公演。
その後、山寺・関とユニット・バナナフリッターズを結成し、ラジオやCDリリース、舞台などで1995年頃まで活動した(1995年に活動停止)。
1994年ラジオの仕事で知り合った年下のディレクターと結婚している。

【来歴/アイドル時代の苦労話】
アイドル時代初期には、空手着姿のグラビアを撮影したことがある。
しかし、日高は「二度とやりたくない」と公言している。
また「週刊ゴング」のリポーターを務めていた経験もある。
日高がアシスタントを担当した『オールナイトニッポン』のメインパーソナリティー・笑福亭鶴光に、後任アシスタントの坂上とし恵、ゲストとしてよく出演していた浜田朱里とともに「がげっぷちトリオ」と命名されるほど、初期は苦労続きであった(鶴光の十八番である下ネタも苦手にしていた)。
また(一応)自分のコーナーとして「日高のりこのアップ・ルンルン」と題する時間帯を貰ってファンからの投稿に応えていたが、単独でDJとして生放送を行っている最中に、全部の照明を消されて真っ暗にされる、更に鶴光は当然ながら他の機器調整等の放送スタッフまで全員が姿を消して一人ぼっちにされる(その結果、怖さの余り本気で生放送中にもかかわらず号泣し、スタッフが戻りCMを入れて打ち切るまでそのまま全国に放送される)等の数々の悪戯が繰り返され、何事もない正常な放送を流せなかったことも度々であった。
コーナー名自体が「日高はほっぺたがリンゴの様に赤い田舎者」だと揶揄する発言を鶴光が繰り返すものであり、鶴光の下ネタを始め当時のアイドルに必須な「清純可憐で爽やかなイメージ」を無理矢理に崩壊させる仕打ちを受けていた。
ただそれでも番組降板時には「私はこの場所を離れたくない! 」と絶叫したとのこと(『鶴光オールナイト』最終回にて笑福亭鶴光談)。
アイドル時代のある日、温泉でのロケが入った日高が現地に着くと、そこには温泉に入浴しているクマがいた。
実は、ロケの内容は「クマと一緒に温泉に入る」企画であった。
恐る恐る入浴する日高だったが、突如、クマが日高の髪の毛に噛み付くアクシデントが発生。命からがら逃げ出した日高が、番組のディレクターに文句を言うと、ディレクターは「自分が入って大丈夫ならまたやろう」と自らクマと一緒に入浴。
しかし、クマに腕を噛まれる結果となったと言う(エッセイ本『のんこ』や『渋谷でチュッ!』ゲスト出演時等で語っている)。

【来歴/『タッチ』での演技指導】
前述の『超時空騎団サザンクロス』のオーディションと、当時レギュラーだったラジオ番組と時間が重なったため、当時の岡本マネージャーがラジオ持参でオーディション会場に駆け付け、結果声優デビューを果たしたという逸話がある。
このように殆ど未経験同然で声優の世界に飛び込んだ為、暫くはその演技力を酷評される時期が続いた。
その当時から先輩の島本須美にオーディションの最終選考で敗れる事がしばしばで、後には島本に対して「いつも自分の前を行っていた」、「オーディションで会うと諦めていた」、「敵わないと思った」などの発言を残している。
1985年に放映開始された『タッチ』では、オーディションを経てメインスタッフの「下手だけどこの子に賭けてみよう」という、育成目的も込めた意図でヒロイン・浅倉南役に抜擢される。
そのアフレコ現場では、共演していた林家こぶ平(現・林家正蔵)と共に、上杉達也役の三ツ矢雄二を始めとする先輩声優や、藤山房伸音響監督に毎回厳しい演技指導を受けていたという。
しかし、この環境は日高の演技力を短期間のうちに向上させ、以後息の長い活動を見せることとなった。
これらから「現場で叩き上げられて成長した代表例」、「努力で這い上がった苦労人」と取り上げられることもあり、日高本人も当時の『タッチ』関係者に自著で感謝の念を語っている。
後には、山口勝平の新人時代の演技指導にも活かされ、今でも山口は日高に頭が上がらないと言う。

【来歴/少年・青年役】
『ピーターパンの冒険』では、当初はヒロインのウェンディ役としてオファーを受けていた。
しかし「少年役に挑戦したい」という考えから、日高本人がピーターパン役での出演を希望し、変更になったという経緯がある。
「当時の自身に付きまとっていた『浅倉南』のイメージを振り払うためだった」、と後に動機を語っているが、第1話のアフレコでは力みすぎて声をつぶしてしまい、また、初の少年役とういことで日高本人はプレッシャーを感じて苦しんでいたが、ウェンディ役の松井菜桜子や共演していた島本須美に助けてもらって演じる事が出来たという。
結果、見事イメージの払拭に成功し、声優としての評価を上げることとなった。
2つ目の本格的な少年役『ふしぎの海のナディア』のジャンは、ピーターパンのはつらつな芝居と違い、抑える場面や日常的な会話の演技を求められ、「男の子の声になっているだろうか?」との不安を感じたという。
また、発明家という設定から脚本のセリフに難しい漢字が多く、漢字が苦手な日高はその面でも苦労もあったと語っている。
更に劇場版では、17歳に成長した青年のジャンも演じているが、当時青年を演じている女性声優は野沢雅子しかいなかった為、やりがい・苦労共に大きかったという。
ジャン役以降は少年役も増え、一時期は女性役以上の数をこなしていた。
少年役でのキャラクターソングも多数歌っている。
正義側が大半だが、『るろうに剣心』では青年の悪役(瀬田宗次郎)を演じた。
また『DEATH NOTE』のニアは、今までの少年役よりもさらに低い声を出している。

▲ページトップ

コメント投稿

お名前とコメントを入力し、「投稿」ボタンを押して下さい。
コメントは会員登録なしで投稿出来ます。
投稿されたコメントは直ちに反映されますが、当サイトで問題があると判断した場合は削除されることがあります。
短時間で多数のコメントを連続投稿することは出来ません。

お名前
コメント

コメント一覧